
人間は、感謝の気持ちを言葉で伝えるものだという。
しかし、言葉を持たぬ者は、いったい何をもって、
その思いを伝えたらいいのであろうか?
吾輩は、時折、そんなことを考えている。
あれは、六年ほど前の、ある冬の夕暮れのことである。
その日の夕食には、実に見事なブリトロが出た。
一切れといっても、吾輩の顔ほどはあろうかという大きさであった。
主人はそれをわざわざ手で細かく裂き、
一本一本ピンセットでつまんでは、私の口元まで運んでくれた。
食事は、三十分ほど続いたであろうか。
私は、ただ満腹になっただけではなかった。
主人がかけてくれた手間と、その優しさまで、
ブリトロと一緒にいただいたのである。
感謝というものは、胸の中だけにしまっておくには、
いささかもったいない。
そこで私は、主人が立っている水槽の前まで歩いて行き、
首を精いっぱい伸ばした。
「ありがとう」
もちろん、人間の耳には聞こえない。
しかし、私としては、確かにそう言ったつもりである。
挨拶を終えると、私は水槽の壁に体を預けながら、
ゆっくりと歩き始めた。
ところが近頃は、少し太ったせいか、それとも年齢のせいか、
以前よりも息が上がりやすくなっている。
「ヒイーッ、ヒイーッ」
その吐息を聞いた主人が、突然、奥さんを呼んだ。
「おーい。カメ子が何かしゃべりよるぞ」
奥さんも水槽をのぞき込み、じっと耳を澄ませた。
しかし、しばらくして首をかしげた。
「何も聞こえないわよ」
今回ばかりは、主人も譲らない。
「いや、ちゃんと聞こえるじゃないか」
どうやら二人は、また言い合いを始めたらしい。
吾輩は、思わず苦笑した。
主人、それは言葉ではありません。
ただの吐息です。
少々、息が上がっているだけなのです。
そもそも私たちカメは、人間のように言葉を話す代わりに、
顎を鳴らしたり、さまざまな仕草をしたりして、
思いを伝える生き物なのである。
そう心の中でつぶやきながら歩いていると、不意に足を滑らせた。
体は水槽の壁をずるずると滑り落ち、
そのまま勢いよく水の中へ飛び込んだ。
そして、水しぶきが、辺り一面に飛び散った。
「シュッ」
思わず、声のようなものが漏れた。
すると主人は、待ってましたとばかりに嬉しそうな顔をした。
「ほら。今度は『痛い』って言ったぞ」
まったく。もう。
主人という人は、都合のよいときに限って、
吾輩の言葉が分かるらしい。
私は再び主人の前まで戻ると、
この日最後のおもてなしを始めた。
そう。
感謝の気持ちを込めた「カメ子ダンス」である。
前足をしっかりと踏ん張り、体の後ろ半分を、
右へ左へとゆっくり揺らす。
主人の顔をまっすぐに見つめながら、
ただ、ひたすら踊るのである。
五分ほど続けたであろうか。
さすがに、少々息も切れてきた。
それでも、その日は不思議なくらい気分が良かった。
私はさらに水槽の壁へ近づき、首をぐっと伸ばした。
主人の顔まで、あと十センチほどである。
これほど近くで主人の顔を眺めたのは、初めてかもしれない。
主人は日頃、吾輩を見るたびに、
「カメ肌だなあ」
と言って笑っている。
しかし、こうして間近で眺めてみると、
人間の肌も案外たいしたものではない。
それどころか、人間の顔というものは、
カメから見ると、なかなか不思議な形をしている。
私は思わず笑いそうになり、
「ヒイーッ、ヒイーッ」
と息を弾ませながら、再び体を揺らした。
主人は目を細め、ぽつりと言った。
「よく見ると、カメ子は本当にかわいいなあ」
その一言だけで、この日のごちそうは、
私の心の中でもう一度、きらきらと輝き始めた。
感謝は、必ずしも言葉だけで伝えるものではない。
ほんの少し相手に近づくこと。
まっすぐに相手を見つめること。
そして、自分にできる精いっぱいの仕草で、思いに応えること。
それだけで、十分に伝わる気持ちもあるのである。
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読者の皆様へ
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「カメのひとりごと」は、
主人が目にしたカメ子の何気ない仕草から、
「今、カメ子は何を思っているのだろう?」と
想像をふくらませながら生まれた物語です。
今年の春には、『カメのひとりごと』のマンガ版を
Amazon Kindleより発売いたしました。
ブログで大切にしてきた世界観はそのままに、
マンガならではの表情や動きを加え、
一つひとつの物語を、より豊かに描いています。
静けさや余韻を大切にし、
読者の皆様の想像に委ねる物語もあれば、
登場人物たちの会話を楽しみながら、
気軽に読んでいただける物語もあります。
作品ごとに異なる味わいを楽しめることも、
マンガ版『カメのひとりごと』の魅力の一つです。
ブログの文章だけでは伝えきれないカメ子の表情や仕草、
主人との心温まるやり取りも、ぜひご覧いただけましたら幸いです。
次回作の発売日などについては、ブログ、Instagram、X、noteなどで
随時お知らせいたします。
これからも『カメのひとりごと』を温かく見守っていただけますよう、
どうぞよろしくお願いいたします。
このたびの熊本県を中心とする地震により、
被害に遭われた皆様に、心よりお見舞い申し上げます。
今も不安な時間を過ごされている方々が、
一日も早く安心して暮らせる日を迎えられますよう、
心よりお祈り申し上げます。
樋下由美子






