
この話は、今から七年前、冬の名残がまだ残っている頃のことである。
カメ輔の身に、見過ごすことのできぬ異変が生じていた。
主人が水替えをしていた折、ふと気付いたらしい。
「カメ輔の足の付け根に白いものがある。これは、いったい何だろう」
その問いに対し、奥さんは間髪入れずにこう言い放った。
「水替えをサボっているから、カビが生えたんじゃないの」
またしても主人は叱られていた。
吾輩は内心、「気の毒に」と思いつつも、余計な口出しは控えていた。
なにしろ、火の粉がこちらに飛んでくるのは御免こうむりたい。からなぁ。
しかし、事態は単なる水カビにとどまらなかった。
カメ輔の甲羅や体には藻が繁茂し、特に尾に近い部分は目を覆いたくなるほどであった。
さらには頭部にまで青い藻が生じていたのである。
本来、頭に藻が生えるなど考えにくい。
それほどまでに環境が悪化していたということだろう。
にもかかわらず、主人はその様子を見て、
「まるで丁髷(ちょんまげ)のようだ。バカ殿みたいだな」と笑っていた。
主人よ、今は笑っている場合ではあるまい。
カメ輔は吾輩の大切な弟であるぞ。
このような事態に至ったのは、日々の管理が行き届かなかったためであり、
加えて甲羅干しをする岩がなかったことも一因であろう。
以前、カメ輔の水槽に岩を置いたことはあった。
しかし、水槽が狭くなり、カメ輔は岩から転げ落ち、
自力で元に戻れず溺れかけたことがあった。
そのため、主人は岩を置くことを断念していたのだった。
だが結果として、皮膚病と寒さの問題を招いてしまった。
岩を置くべきか、置かざるべきか。
主人と奥さんは熟慮の末、一つの結論に至った。
水槽そのものを大きなものへ替え、
十分な広さを確保したうえで岩を設置し、
さらに水位を浅くして安全を保つ。
これはカメ輔にとって、まさに「昇格」と呼ぶべき出来事であった。
吾輩もまた、兄として喜ばしく思った。
やがてその日が訪れた。
主人たちは新しい水槽を携えて帰ってきたのである。
その大きさを見て、吾輩は思った。
「ついにカメ輔が一国一城の主になるのだな」と。
ところが次の瞬間、思いもよらぬことが起こった。
主人は吾輩をつかみ、新しい水槽へと入れたのである。
「これはカメ輔の新居ではなかったのか」
驚きとともに、鼻をつく新しい水槽特有の匂いに顔をしかめた。
しかし主人は気にする様子もなく、
「新築祝いだ。温かい湯を入れてやろう」と言いい湯を注いでくれた。
その温もりは、寒さにこわばっていた体をほぐし、
匂いもさほど気にならなくなっていった。
ふと気付けば、水槽の位置も変わっていた。
部屋の中央、食卓の近くである。
そこでは毎日のように、美味しそうな匂いが漂ってくる。
「これは悪くない」と、吾輩は思った。
こうして吾輩は、新居の主となったのである。
一方、カメ輔は吾輩の使っていた水槽へ移された。
そこには適度な高さの岩が置かれ、水位も浅く整えられていた。
しかし彼は環境の変化に戸惑い、しばらく身を固くしていたという。
岩に近づいては警戒し、時には敵を見るかのようににらみつけていた。
甲羅干しをすることもなく、ただ、様子をうかがっていた。
その様子を見ていた主人が、
「甲羅干しを覚えさせなければならないな」と言った。
翌朝、カメ輔は、足を伸ばして眠っていたそうである。
ようやく少し、新しい環境に慣れていったのだろう。
吾輩は安堵した。
「やがて、この新しい住まいのありがたさも分かるであろう」と。
吾輩は、こうしてカメ輔を見守りながら、
実際の世話はすべて主人たちに任せている。
それでも、兄としての威厳だけは立派に保っている。
そんな吾輩である。
読者の皆様へ
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樋下由美子
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