カメのひとりごと

ニホンイシガメのカメ子が、カメ目線でとらえた人間社会をおもしろおかしく書いています。

第208話 失われていくもの

この出来事は、今から七年前の冬のことである。
当時、吾輩カメ子は八才、そして、カメ輔は、まだ生まれて間もない幼き命であった。
今となっては遠き日の記憶ではあるが、あの朝の寒さだけは、いまだに甲羅の奥に残っている。

前夜、主人と奥さんが居間で語り合っていた。
「明日から、今年一番の寒波が来るらしいよ」と。
その言葉を耳にしたとき、胸の内に、言葉にしがたい小さな不安が静かに芽生えたのである。

そして翌朝、まだ夜も明けぬ午前四時頃であった。
これまで経験したことのないような鋭い寒さが、静かに体を包み込み、吾輩は思わず目を覚ました。
「このままでは少々まずいのではないか」と感じつつも、眠気の重さに抗い(あらがい)きれず、再び夢の底へ沈んでしまったのである。

そのときであった。
寝床から起き上がった主人が、静かに声をかけてくれた。
「カメ子、カメ輔、大丈夫か?寒いだろう」
そう言って、ためらうことなく暖房を入れてくれたのである。

さらに主人は、何やら気配を感じたのか、
「カメ輔がピーピー鳴いている」と奥さんを起こそうとした。
しかし奥さんは、眠りの中から一言。
「そんな事で、私を起こさないでよ!」と一喝。
その光景を見て、吾輩は思った。
「また主人が叱られている。吾輩たちのために、何とも申し訳ないことだ」と。

夢うつつの中で、確かに誰かのか細い声が聞こえていた。
だが、それが誰なのか、その時の吾輩には分からなかった。
後になって気付いたのである。
あれはカメ輔の声であった。

思えば、カメ輔の水槽には、甲羅干しをするための岩が置かれていなかった。
ゆえに寒波の到来とともに、冷えを直接受けるほかなかったのである。
カメが「ピーピー」と鳴くのは、よほどの緊急事態にほかならない。

吾輩自身も幼き頃、溺れかけたことがある。
その時、今は亡きカメ吉が必死に鳴いて奥さんを呼び、命を救ってくれた。
優しく、そして勇気ある存在であった。

それなのに今回は、吾輩は気付いてあげることができなかった。
人に飼われる年月の中で、野生の勘というものが、少しずつ薄れてしまったのだろうか。
人間より遅れて危機に気付いた自分の不覚を、静かに恥じるばかりであった。

主人には、心から感謝している。
あの寒き朝、いち早く気付いてくれたおかげで、カメ輔は守られたのである。

だからこそ、ささやかな願いがある。
どうか、カメ輔の水槽に甲羅干しのできる岩を置いていただきたい。
小さな備えが、小さな命を守ることもあるのだから。

人と共に暮らす中で、便利さと引き換えに、何か大切な感覚が静かに失われていく。
それは野生の勘であり、危機を察する力であり、そして、仲間の声にいち早く気付く心でもあるのかもしれない。

あの冬の寒波は去った。
だが吾輩は今もなお、あのか細い「ピーピー」という声を忘れることができない。
それは寒さの記憶であると同時に、失われていくものへの、静かな警鐘でもあったのである。

読者の皆様へ 

今年の春に
「カメのひとりごと」の
マンガ版が
Amazonのkindleで発売決定!

これまでブログで掲載してきた「カメのひとりごと」は、
少しコミカルで、やわらかな語りの物語でした。

しかし今回、Kindle版として制作したマンガは、
まったく新しい作品で、セリフを極限まで削り、
静けさと余韻だけで描いた、文学型の「カメのひとりごと」。

多くを語らないからこそ、
読む人それぞれの心に残る物語になると思います。

New「カメのひとりごと」もお楽しみください。

発売日など詳細が決まりましたら、
ブログ、インスタグラム、Xなどで
お知らせ致しますので、楽しみに待っていてくださいね!       

樋下由美子
 

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