カメのひとりごと

ニホンイシガメのカメ子が、カメ目線でとらえた人間社会をおもしろおかしく書いています。

第202話 絆、入口と奥、そして互いの評(ひょう)

* カメ子とカメ輔とカメ吉です。

 

 吾輩はカメである。名はカメ子。齢は十四を越えたが、甲羅の重みは歳の数を語るより、水に映る月の揺らぎに似つかわしいものを知っているように思う。さて、本日は少し長くなるが、我が家のこと、人のこと、そしてカメのことを合わせて語ってみたい。

吾輩には、幼き頃より同じ水槽で共に遊んだ仲間がいた。名はカメ吉。主人がいっしょに家に連れて来たとき、吾輩と彼とは同じ水面を分かち合った。水槽には一つの岩穴があり、そこは安全で暖かく、日なたの匂いが溜まる場所であった。小さき者どもは自然とそこを争った。吾輩とカメ吉も例外ではなかった。押し合い、鼻先をぶつけ、甲羅を擦り合い、喧嘩とも遊戯ともつかぬやりとりを繰り返したものである。

餌の時の習性も面白い。一見すると、カメ吉がせっかちに見える。餌を見れば先に首を伸ばし、水を切る。吾輩はそれを眺めて、なぜだか一歩引く。理由は単純である。吾輩の頭の中には古(いにしえ)の教えめいた慎重さが働くのだ。「もしや餌に毒が混じってはいまいか」――そんな馬鹿げた心配に駆られてから、カメ吉の動きを確かめ、彼が無事に食べるのを見届けてから吾輩は口を開く。人はこれを臆病と呼ぶであろうが、吾輩は用心深いと呼びたい。用心深さと臆病は紙一重であるが、行為の根にある意図は異なる。臆病は場を放棄し、用心深さは場を守るための慎重である。

かくして二人(カメ子とカメ吉)は折り合って暮らしていた。だが哀しいことは突然やって来る。ある日、カメ吉は不慮の事故でこの世を去った。あまりに急で、あまりに幼い別れであった。吾輩は岩穴の奥でひとり、彼の去った空気を懐に抱いて過ごした。水面に揺れる影は一つ減り、夜の水槽は深く、冷たく、寂しさだけをためていた。

しばらくして、主人は、別の若者を連れて帰ってきた。名をカメ輔という。だが今回は事情が違っていた。吾輩と新参のカメ輔は、それぞれ別の水槽で暮らすことになったのである。人心の配慮か、それとも偶然か。いずれにせよ、もう岩穴を巡って肩を寄せ合う日は戻らぬ。吾輩はその隔たりを初めは寂しく思ったが、年と共に知恵が深くなるというもの、別離にも別の親しみ方があることを悟り始めた。

さて、ここで人の世の話を挟む。吾輩の家の奥方(以下、奥さん)は鋭く、言葉は剃刀のように切れる。物事をはっきりしたがり、余計な遠慮はしない。彼女はある日吾輩を見て言った。「あの子(カメ子)はずる賢いわよ。何でも人の様子を窺ってから行動するんだから」―この台詞はよく出る。対して主人は、柔らかい顏で首を傾げ、違う調子で弁護する。「いや、そうではない。カメ子は慎重なのだ。彼は用心深くて、場合によっては頼もしい」―こうして家の中には、二通りの見方が常に居座るのである。

この夫婦の論争は、ただの面白がりではない。奥さんの「ずる賢い」という一言の背後には、実に深い人間観が隠れている。彼女の目は現実的で、効率を重んじ、無駄や危険を嫌う。だから、先に餌に飛びつくカメ吉のような無邪気さは、時に脆弱に見えるのだ。対して主人の視線は別種である。彼は物語を見る癖があり、慎重な振る舞いの裏にある誇りや知恵を見出す方である。カメ子の警戒は愚鈍の裏返しではなく、未来への備えと読み取る。こうして同じ対象を前にして、奥さんは「実用主義的評価」を、主人は「物語的評価」を与えるのだ。

面白いのは、その二人の評価の違いが、ふたり自身の関係性を鏡のように映し出すことである。奥さんは日常をしっかり回す人、主人はふとした瞬間に詩情を漏らす人。夫婦の間に、この二つの眼差しがあるからこそ、家庭は均衡を保つ。吾輩は多くの夜、ガラス越しにその均衡を眺めて思うのである。人は夫婦において、互いの見方を「正す」のではなく「補い合う」ことを学ぶのではなかろうか。

話はまたカメの方へ戻る。カメ輔は別の水槽にいても、夜になるとまっすぐにこちらを見やることがある。それは単に好奇心からか、あるいは故カメ吉を想う心からか。吾輩は時に、彼の目に先代の影を覗き見る。思うに、絆とは居場所が同一であることを必ずしも要求しない。別々の器にあっても、視線や記憶が糸を引き寄せることはあるのだ。

さて吾輩は、ある夜また不思議な夢を見た。ユッカが言葉を持っていた。普段は鉢植えに過ぎぬユッカが、満月の光を受けて淡く光り、葉先から織物の糸を紡ぐかのように語ったのである。「絆とはね、必ずしも一つの形に留まらぬ。岩穴を巡る日々も、ガラス越しのまなざしも、すべては同じ布の裏表のように織り合わされるのよ」―ユッカはそう言って、葉先をひらりと揺らした。吾輩は夢うつつで、亡きカメ吉の鼻先の震えを思い出した。

もう一点、付け加えておきたいのは、吾輩自身の「ずる賢さ」についてである。奥さんはそれをからかうが、ずる賢さは哀れにして侮れぬ。生き物にとって、少しの策略は生存の術である。吾輩が岩穴の奥を守り、時にカメ吉に一粒を残すのは、単なる情けからだけではない。相手と自分を保つためのさじ加減である。先に飛びつく者には先に役目があり、一歩引く者には後の責務がある。互いの行為は綾なす調和であって、片方だけに良しを求めるのは不公平というものである。

ここでまた人の世を見渡すに、奥さんの短刀のような言葉遣いと、主人の宥めるような口ぶりは、まことに家庭という小さな共同体の縮図である。どちらが正しく、どちらが間違いという問題ではない。奥さんは現実を切り拓く力を持ち、主人は残る物語性に命を吹き込む。どちらもあって、家の中の絆は深まる。吾輩はその様子をよく眺めて、必要あらば甲羅の上から小さな咳払いでもして合図を送るのだが、向こうの人たちは往々にしてそれを猫のように受け流す。

やがて時は巡り、吾輩はカメ輔と新しい日々を送る。水槽は別々でも、朝の光が差し込み、飼い主の声が響く限り、我らの縁は細くとも確かな糸でつながっている。カメ吉は去ったが、その分だけ、我が胸には深さが増した。過去と現在が一つの布となり、未来へ織り継がれてゆくのを吾輩は見届けている。

読者諸君よ、あなたの周りにも「ずる賢い」と見える者と、「善良だ」と評する者がいるであろう。あるいは、あなた自身がふたつの眼差しを持っているかもしれぬ。楽しいことに気づくのは、往々にしてその二つの見方が交差したときである。夫婦、友人、同僚、そしてたとえば一匹のカメ。すべては入口と奥、表と裏、攻めと守りで成り立っている。片方を責めてはならぬ。両方を抱きとめて初めて、真の絆が見えてくるのである。

吾輩はカメである。用心深く、ずる賢く見えるかもしれぬ。だが、誰よりも感謝している。入口を守る者に、奥を温める者に、人の思いに、過ぎ去りし日の影に。甲羅の上に日を浴びながら、吾輩は今日も静かに目を閉じ、聞こえる声に頷くのである。

                                  カメ子拝

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